IT翻訳者の疑問

この業界に入って約20年。私の疑問は相変わらず解決しません。

英日翻訳のときに頭から訳す理由

「頭から訳す」は「訳し下ろす」と言った方がいいのかもしれませんが、いずれにしても、そうするのは情報を提示する順序が原文でも訳文でも同じになるようにするためです。

 

英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)

英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)

 

 安西徹雄『英文翻訳術』の序章の最初の節「原文の思考の流れを乱すな」にも次のような記述があります。

 文法の枠組に入る前に、まず、すべての前提となる点をいくつか最初に書いておきたい。その第一は、原文の思考の流れを乱すなということ――つまり、もっと具体的にいえば、原文で単語や句の並んでいる順序をできるだけ変えないで、頭から順に訳しおろしてゆくように心がけるということである。

 もちろん、英語と日本語では、文の構成の仕方が根本的にちがうから、英文解釈の原則そのままに訳してゆけば、当然、原文の単語や句の順序を大いに乱して、うしろから前に逆に訳し戻すという結果になってしまう。けれどもこうしたやり方では、非常に具合の悪いことがいくつも出てくる。

 これに続く解説を読むと、英文の動詞をそのまま日本語の述語に持ってくるような直訳では原文の思考の流れが訳文に反映できないことがよくわかります。例文の一部を引用しておきます。

Mishima Yukio used to be fond of saying that Japan and the United States should have another war. It took a war to make Americans interested in Japan, he said, and if there were signs that the interest was lagging, then the time had come for another war.

 「戦争」という一句を連結器にして最初の文から次の文へと思考の流れが受け渡されていく、という著者の解説はとてもよく理解できます。だから「三島由紀夫はかつて、~と語ることを大いに好んでいた」という直訳ではなく、「三島由紀夫が、生前、好んで語っていたことがある。日本とアメリカは、もう一度戦争すべきだ。」と翻訳するのが適切であることも。

Microsoftの製品ファミリとカルチャ

jacquelinet.hatenablog.com

2008年7月、Micorosoftは日本語文書での外来語カタカナ表記規則を変更し、それ以来printerは「プリンタ」ではなく「プリンター」、computerは「コンピュータ」ではなく「コンピューター」と書かれることになりました。この変更の理由は、今も残っているネット記事(https://www.atmarkit.co.jp/news/200807/25/microsoft.html)によれば

 マイクロソフトはコンピュータが日常必需品となり一般化してくるにつれて、長音なしの表記に対してユーザーが違和感を感じるようになっているとし、「一般的な表記に合わせる時期」(加治佐氏)と判断。2003年ごろから具体的な検討を始めた。これまで画面表示領域やメモリ容量の制限などから、コンピュータ業界では長音記号を省略するケースが多かったが「ハードウェアやソフトウェアの制約がなくなってきた」(加治佐氏)こともルール変更の理由の1つという。 

 です。「コンピュータ」という表記に違和感を持つ一般人の感覚に合わせたということですね。

しかしこのときの変更は主に、英語の語末が-erや-orの言葉に限られていました。それ以外は特に変更のないまま12年が経過し、その結果として今も「製品ファミリ」という妙な表記が使われています。MIcrosoft用語としてのproduct familyが「製品ファミリ」なのはまだいいとして、人間のfamilyまで「ファミリ」だと違和感があります。

https://support.microsoft.com/ja-jp/help/12413

ファミリ グループは、Windows 10 デバイスXbox Oneバイスに加えて、Microsoft Launcher を実行している Androidバイスで、家族が連絡を取り合い、お子様の安全性を保つために役立ちます。これは無料のサービスで、Microsoft アカウントによる多くのメリットの 1 つです。

Microsoftのドキュメントに登場する「カルチャ」というカタカナ語も、cultureのことだと知ったときは衝撃的でした。確かにpictureは「ピクチャ」だったから、語末が-tureの英単語をカタカナ表記するとこうなるのでしょう。でもcultureは「カルチャー」ですよね。純粋にコンピューターの中だけで使われるcultureと人間のcultureを、日本語のカタカナ語としては別々に表記しないといけないのか。

12年前と比べて、人とcomputerとのかかわりかたも変わったはずなので、それを表す言葉の表記法も見直すことが必要なのではないかと思います。

Microsoftの不思議な言語感覚(「弊社」)

www.microsoft.com

上記のWebページに次のようなテキストがあるのですが、これは機械翻訳の出力か何かですか?

弊社での調査によると、多くのユーザーは新しい PC は、快適であると答えています。 

 

「弊社」というへりくだった表現は、こういうコンテンツではあまり使わないものだと思っていましたが、最近はそうでもないのでしょうか。

英語版のページ(https://www.microsoft.com/en-us/windows/computers)では、この部分は次のようになっています。

We’ve done the research. Turns out people are happier when they go with a modern PC.6 Here are the top three reasons why. 

 そして脚注6には「Microsoft Customer Usage & Satisfaction Program – US FY18 (Q1-Q4).」と書かれています。英語版では「調査」の出典を示し、その下の3つの項目に続くように文章が書かれていますが、日本語ではただの怪しい文章になっています。

ついでに、A modern PCの日本語訳は「新しいPC」でいいのでしょうか? Microsoftは「モダンPC」を推進していたはずですが。

www.itmedia.co.jp

www.watch.impress.co.jp

目的は、PCの詳しい知識がなくても店頭で「モダンPCが欲しい」と言えば、一定水準を満たしたPCを選べるようにするため。最新のWindows 10を快適に使えるPCを選ぶ指標になる。

 Microsoft自身も「モダン PC」のページを作ったのに、もう忘れてしまったのでしょうか。

www.microsoft.com

もう一つついでに、「多くのユーザーは、快適であると答えた」ということは、快適ではないと答えた人もいるということになりますが、そんなことを言ってしまって大丈夫なのでしょうか。英語版ページでは「Turns out people are happier when...」です。つまり、modern PCに移行した人はみんな、前より幸せになったことが調査で明らかになっているので、皆さんも移行しましょうということですよね。

MSスタイルガイドを改めて見てみた

少し時間が空いたので、Microsoftのランゲージポータル(https://www.microsoft.com/ja-jp/language/StyleGuides)で公開されている日本語スタイルガイドを久しぶりにダウンロードしてみました。たびたび更新されているようで、ダウンロードしたバージョンは「Published: February, 2019」となっています。
MSスタイルガイドには、半角文字と全角文字の間のスペースとかカタカナ複合語間のスペースのことだけが書かれているわけではなく、冒頭の「1 About this style guide」に続いて「2 Microsoft voice」というセクションがあります。Microsoft voiceというコンセプトが導入されたのはいつだったか忘れましたが、もう10年ぐらい経っているのではないでしょうか。Microsoftのvoiceの原則は次の3つです。

• Warm and relaxed: We’re natural. Less formal, more grounded in honest
conversations. Occasionally, we’re fun. (We know when to celebrate.)
• Crisp and clear: We’re to the point. We write for scanning first, reading second. We make it simple above all.
• Ready to lend a hand: We show customers we’re on their side. We anticipate their real needs and offer great information at just the right time.

これはローカライズ作業だけに適用されるものではなく、英語のコンテンツもこれに基づいて執筆されているそうです。
日本語へのローカライズに関する記述で注目したいのは、「2.1 Choices that reflect Microsoft voice」の次の部分です。

Because Microsoft voice means a more conversational style, literally translating the source text may produce target text that’s not relevant to customers. To guide your translation, consider the intent of the text and what the customer needs to know to successfully complete the task.

逐語訳では読者の役に立たないこともあるので、原文の意図を理解して、読者が知りたいことを的確に伝えよということですね。当たり前と言えば当たり前ですが。

Microsoftがmanagedの訳を「マネージド」に変更していた

https://www.microsoft.com/ja-jp/languageで「managed」と入力して検索すると、「マイクロソフト用語集」の検索結果が表示され、その中にmanagedの日本語訳として「マネージド」があります。かつては「マネージ」だったのに、いつ宗旨替えしたのだろう。

jacquelinet.hatenablog.com

英語の新しい用語を適切に表現する日本語の言葉が見つからないときの、音訳の規則はあるのだろうかというのが長年の疑問でしたが、傾向としては言いやすいものが選ばれているようですね。でもmanagedはmanageとは意味が違う言葉なので、「マネージ」でなくなったのはよいことです。ほんとうはカタカナ語でない言葉にすべきですが。

ちなみに、上記のMicrosoftランゲージポータルで簡体字中国語の訳を調べると、managed=「托管的」または「托管」となっています。manageは「管理」だから区別されていますね。韓国語ではManage=「관리」、managed=「관리」で、こちらは今のところ区別がないようです。

新しいMicrosoft Edgeの宣伝文

PCでEdgeブラウザーを起動したら「新しい Microsoft Edge へようこそ」(https://microsoftedgewelcome.microsoft.com/ja-jp/)という画面が表示されました。そのすぐ下には、こう書かれています。

さらに充実した機能をご確認ください。閲覧時のプライバシー、生産性、価値を向上させつつ、世界最高峰のパフォーマンスを提供します。

英語版のページも見てみました。(https://microsoftedgewelcome.microsoft.com/en-us/

It's time to expect more. World-class performance with more privacy, more productivity, and more value while you browse. 

 最初の「It's time to expect more.」という文の翻訳は、技術文書を主に手がける翻訳者にとっては難しいですよね。こういう文章の翻訳が得意な人に、ここだけお願いするわけにもいかないし。次の文の構造はこれでよいのでしょうか。日本語版のページでは、新しいEdgeの特長は「世界最高峰のパフォーマンス」ということになりますが、英語版ではWorld-class performance withが文の先頭にあり、その後にmore privacy, more productivity, and more valueが続いています。例の法則に当てはめて考えると、強調したいのはこちらではないでしょうか。このページの本文が「プライバシー」「パフォーマンス」「生産性」「価値」「ヒント」というセクションに分かれていますし。最初の文のexpect moreが意味するのは、パフォーマンスだけでなくmore privacy, more productivity, and more valueをこのブラウザーに期待していいですよということではないでしょうか。