IT翻訳者の疑問

この業界に入って約20年。私の疑問は相変わらず解決しません。

エージェント型企業とは

「エージェント型企業」というのはIT関連のメールマガジンで見かけたフレーズですが、いったいどういう意味なのでしょうか。主な業務が「エージェント型」である、つまり旅行代理店や広告代理店のことなのでしょうか?
この言葉を用語集に掲載している企業がありましたので、その説明文を引用します。

www.mendix.com

エージェント企業

エージェント型企業とは、AIエージェントと人間が協力して業務を実行し、ワークフローを自動化し、ビジネス全体にわたる意思決定を行う組織のことである。

このWebページの英語版もあるので見てみると、英語ではagentic enterpriseだそうです。

Technology Glossary Terms & Jargon | Siemens | Mendix

Agentic Enterprise
An agentic enterprise is an organization where AI agents and people work together to execute tasks, automate workflows, and make decisions across the business.

人とAIエージェントが協調するという仕事のしかたを業務全体に取り入れたのがagentic enterpriseということですが、これを「エージェント型」と呼んでよいものでしょうか。なぜこの訳が使われるのかについては、Agenti AIという概念のagenticを「エージェント型」と訳したからだと推測されます。

もちろんagentic enterpriseは特定の企業だけで使われる概念ではないので、さまざまな企業や組織のコンテンツに出現します。たとえばSalesforceでは「エージェンティックエンタープライズ」という表現が使われています。

www.salesforce.com

「エージェンティック」というなじみのないカタカナ語よりも、既に浸透している「エージェント」のほうが理解しやすいという考え方もわかりますが、問題はその意味です。国語辞典で「エージェント」を調べると「当事者に代わって物事を処理したり、意思表示をしたりする者。代理人。代行人。代理店。代理業者。【出典: 三省堂 大辞林 第四版】」という語義があるので、日本語ではこの意味で使われることが多いと思いのですが、agentic enterpriseという文脈には当てはまらないように思います。

耐障害性に優れた量子コンピューティングとは

https://www.nvidia.com/ja-jp/の先頭部分に表示される記事の1つの見出しに「NVIDIA、耐障害性に優れた量子コンピューティングのための CUDA-Q プラットフォームを拡充」というものがありますが、「耐障害性に優れた量子コンピューティング」とはいったい何なのでしょうか。「詳細を見る」のリンク先はなぜか英語版のページで、その見出しは「NVIDIA Expands Open Source CUDA-Q Platform for Fault-Tolerant Quantum Computing」となっています。

nvidianews.nvidia.com

つまり「耐障害性に優れた量子コンピューティング」とはFault-Tolerant Quantum Computingのことのようです。なぜこれが注目されているかは、この英文記事の次の段落に書かれています。

Fault-tolerant quantum processors with logical qubits are essential for useful quantum computing, allowing systems to overcome the errors inherent in physical qubits so they can execute the larger computations needed for practical applications such as drug discovery, financial modeling and materials development.

物理的量子ビットにつきものの誤りが発生しても訂正ができるということですね。これが「耐障害性に優れた」なのでしょうか。「障害」という表現は少々オーバーに聞こえます。「フォールトトレラント」というカタカナ語は何十年も前から日本語で使われているので、それでよいような気もしますが、文字数の多さから避けられたのでしょうか。
これがこの企業独自の概念ならば、その企業の好みに合わせて訳語を選べばよいのですが、Fault-Tolerant Quantum ComputingはNVIDIA独自というわけではないようです。しかも近年になって突然現れたものでものなく、1990年代に確立した理論だそうです(ChatGPTに教えてもらいました)。そのため、Fault-Tolerant Quantum Computingに関する文献や記事は既に多数存在します。

その中には日本語のものも多数あるはずですが、Webで「耐障害性に優れた量子コンピューティング」を検索してもこのNVIDIAのページを含めて3件しか見つかりません。では他の組織や企業は日本語でどう表現しているのでしょうか。「Fault-Tolerant Quantum Computing 量子」で検索すると、「フォールト・トレラント量子コンピューティング」「誤り耐性量子コンピュータ」「誤り耐性量子計算」などが使われているのがわかります。

www.ibm.com

www.deloitte.com

journal.ntt.co.jp

NVIDIAのWebサイトでも、先ほどの英文記事の日本語版では「誤り耐性量子コンピューティング」という表現が使われています。

 

このようにいろいろな訳語がある状態では、Fault-Tolerant Quantum Computingという概念に関する日本語の文献を探している人がこれらをすべて見つけるのが難しくなります。せっかくのコンテンツが埋もれてしまうのを避けるには、前述のIBMのページのように、英語での表記を併記するのがよいと思います。

フォールト・トレラント量子コンピューター(fault-tolerant quantum computer、FTQC)は、エラーがあっても正しく動作するように設計された量子コンピューターです。

 

SNSでも全角/半角文字間スペースを入れる理由

最近、X(旧Twitter)にNVIDIAの広告が入るようになりました。その文章を見るとNVIDIAのWebサイトと同様に全角文字と半角文字の間にスペースが入っています。たとえば「Kaggler の方、AI 開発者の方へ」です。

このようなスペースを入れるのはWebサイトでの表記スタイルに合わせた結果だと思いますが、なぜスペースが必要なのでしょうか。使う書体によってはアルファベットの「I」などが細すぎて見づらいので、印刷物の組版ルールに合わせて半角スペースを入れる習慣があるのは承知していますが、それをSNSにも持ち込むべきなのでしょうか。SNSには、インターネットに接続できる端末を持っていればだれでもアカウントを作って投稿できますが、SNSユーザーの大多数は全角文字と半角文字の間のスペースなど気にせず投稿しています。おそらく、全角文字と半角文字の間にスペースを入れる人はスペースがないと気持ち悪いというレベルに達しているので、入れるのをやめろというつもりはありません。

もっともNVIDIAの他の投稿を見ていると、「AIのスペシャリストを迎え、Nemotronについて深堀りするNVIDIAの生配信」のように、全角文字と半角文字の間のスペースが空いていないものも見つかります。

どちらでもよいのであれば、「文章を入力しながらスペースを入れて送信前に抜けがないかチェックする」という手間を省けるほうがよいのではないかと思います。

 

 

文中の重要用語に英語での表記を併記する習慣

学術書や高校・大学の教科書などのアカデミックな文章では、文中の用語に英語もしくは他の外国語での表現が併記されていることがあります。たとえばこのひつじ書房のWebページには「実は、言語を記号演算操作と見なしてはならないことは、長年AI研究を苦しめてきた記号接地問題もしくはシンボル・グラウンディング問題(symbol grounding problem)と深く関係しています。」という記述があります。

 

www.hituzi.co.jp

この英語表現の併記はどのような基準で行われているのかを知りたくなりました。翻訳業界では、そうしろと指示されることは私の経験ではほとんどありませんが、併記すればいいのにと思うことがあるからです。たとえば新しい概念についての説明を訳すときに、その概念をそのまま日本語に訳すと新しい概念らしく見えず、理解が進まないと思われる場合です。そこで、アカデミックな世界ではどういう基準で英語での表記を併記しているかをGeminiに質問してみたところ、次のような回答がありました。

日本語の学術書や論文において、日本語の重要用語の直後にカッコ書きなどで英語(原語)を併記する行為は、法的なルールや一律の絶対的基準が存在するわけではありません。

しかし、学術的な明確性・正確性を保ち、読者の理解と研究の展開を支援するために、著者や編集者、学会のガイドラインにおいて共通認識として用いられる明確な基準・目的がいくつか存在します。主な基準と背景は以下の通りです。

1. 訳語の曖昧さを解消・同定するため(原語の特定)

  • 1対1対応しない訳語の補足

    日本語の学術用語は、単一の英語に対して複数の訳が存在したり、逆に異なる英語が同じ日本語に訳されたりすることが頻繁にあります。

    • 例:「意識」と書いた際、それが consciousness なのか awareness なのか、あるいは intent なのかによって概念が大きく異なります。

  • 定訳(標準訳)が定まっていない新語・概念

    海外の新しい研究や概念を導入する際、著者独自の訳語を充てることがあります。その際、原語を示すことで「どの概念の翻訳としてこの日本語を使っているか」を正確に示します。

2. 専門分野の「学術用語集」や学会基準への準拠

  • 文部科学省・学会による「学術用語集」

    多くの学術分野(心理学、医学、工学、物理学など)では、文部科学省や各学会が編纂した『学術用語集』が存在します。

    これらの用語集では「日本語(標準和訳)— 英語(原語)」がペアで定義されており、著者は原則としてこの標準対照表に基づいて併記を行います。

  • 初出(First Occurrence)の原則

    多くの学会・出版社では、「本文中で最初に登場する重要用語(初出)のみ英語を併記し、2回目以降は日本語のみで表記する」というスタイルガイドを採用しています。

3. 読者の文献調査・二次検索(先行研究の追跡)を容易にするため

  • 学術書の読者(研究者、大学院生、専門職)は、その書籍を読んだ後に元の海外論文や原書を調べる(文献検索を行う)ことが前提とされます。

  • 英語表記が併記されていれば、読者がデータベース(PubMed, Google Scholar, Scopusなど)で直接キーとして検索でき、学びや研究をスムーズに深められるという配慮に基づいています。

4. 人名・地名・固有の理論名の原語表記

  • 人名に由来する理論や症候群(例:Freud、Heisenberg、Alzheimerなど)や、各言語独自の概念(例:ドイツ語の Gestalt、フランス語の Anomie)の場合、日本語表記(カタカナ)だけでは発音のゆれが生じるため、原綴(オリジナル表記)を併記するのが一般的です。

実務における併記の運用パターン

登場するケース 英語併記の運用例
定訳がある専門用語 初出時のみ併記(例:深層学習(deep learning))
複数の解釈がある概念 著者が特定の文脈で用いることを示すために併記(例:正義(justice))
著者による新訳・試訳 読者の誤解を防ぐため必ず併記(例:~の概念(以下 X と訳す))
略称(アクロニム)の展開 略称の正式名称を示すために併記(例:自律神経系(ANS: autonomic nervous system))

結論として、英語併記は単なる補足ではなく、「概念の正確な定義」「学会や文献集の標準化」「読者のその後の研究調査への配慮」という学術的な必然性に基づいて行われています。

この中の「定訳が定まっていない新語・概念」「概念の正確な定義」は翻訳業界に大いに関連すると思います。まだ定訳がないけれどこの訳でいいのだろうかと思うときに、英語での表現を併記しておけば不安が減るからです。先日取り上げた「サイバー脅威の追求」も、これだけ見るとなんのことだかわかりませんが、初出時に「サイバー脅威の追求(cyber threat hunting)」と表記しておけば読者が理解しやすくなるし、業界全体での定訳選びの参考にもなるかと思います。

threat huntingの訳

1か月前のことになりますが、日本政府の「サイバーセキュリティ戦略本部」の会合のことがニュースになっていました。

www.nikkei.com

“政府機関や重要インフラ事業者らへのサイバー脅威を能動的に探す「脅威ハンティング」を促進する基本方針を決定した。”という記述を見て思ったのですが、「脅威ハンティング」という呼称はこれで定着することになりそうでしょうか。

「脅威ハンティング」は日本政府が独自に始めるものではなく、サイバーセキュリティ業界に既に広まっているthreat huntingのことであり、「脅威ハンティング」以外の日本語訳も存在します。threat huntingの原型は「米国のNSA(国家安全保障局)が2010年代初期、国家レベルの高度な攻撃(APT)に対抗するため、“自ら敵を探しに行く” 能動的防御のアプローチ を採用。これが民間の threat hunting の原型となったとされる。」(Copilotに質問したときの答え)であり、これを民間企業が製品化して日本市場に売り込むにあたり、好みの訳語を独自に選んだのが現在まで続いていると推測されます。

自分のところの商品名だったら、どれでも好きなのを選べばよいのですが、国を挙げてサイバー防御を固めようというときに、中心的な概念を表す言葉つまりterminologyがばらついているのは、あまりよいことではないと思います。あるインフラ企業が「脅威ハンティング」のサービスを導入しようと思って探したときに「スレットハンティング」を販売しているベンダーは見つけてもらえないかもしれません。これくらいならGoogle searchが気を利かせて見つけてくれるかもしれませんが、huntingの部分まで日本語に訳されてしまうと、その訳し方もいろいろなので見つけようがありません。

huntingも日本語に訳している企業の例がMicrosoftですが、Microsoftが公開しているTerminologyでは、cyber threat huntingというterm(Conceptは「A process of proactively looking through a complete set of networks for security threats so that they can be isolated and eliminated.」)に対応する日本語のtermは「サイバー脅威の追求」となっています。

www.microsoft.com

www.microsoft.com

このページ内では「脅威ハンティング」という表現も使われていますが、どういう基準で使い分けられているのかは不明です。

タグラインの日本語訳

先日取り上げた、Xのタイムラインに挿入されてくるStarlinkの広告については、画像の中にもなかなか興味深い部分があります。下のほうの、SpaceXのロゴの前のテキストが「設計:」のものと「開発:」のものがあるのです。

最近新たに挿入されるようになった、Starlink Miniの広告では「開発:」となっています。

 

この部分が英語でどう書かれているかというと、「ENGINEERED BY」です。このengineerという動詞の意味は単純にいえば「設計して造る」ですが、それだと長いので「開発」と訳してみたり「設計」と訳してみたりしたのだと推測されます。

 

ちなみに、このフレーズはこれらの広告の画像だけでなく、あちこちで使われています。たとえば、StarlinkのXアカウントのプロフィールにも「Engineered by @SpaceX」と書かれています。また、Googleで検索すると、StarlinkのWebサイトにも「Engineered by SpaceX」というセクションがあり、次のような記述があります。

starlink.com

Engineered by SpaceX
Leveraging SpaceX's deep experience with both spacecraft and on-orbit operations, Starlink's advanced satellites are produced and operated in Redmond, Washington and Starlink Kits for customers are manufactured in Bastrop, Texas, all to deliver high-speed, low-latency internet all around the world.

 

「Engineered by SpaceX」というフレーズは、SpaceXという会社がその技術を使って作ったものであるとアピールするのに使われているので、日本市場向けの表現をどうするかはSpaceXのマーケティング担当者に決めてもらうべきかと思います。日本法人がないとしたら、日本語コンテンツのローカライズを任されているローカリゼーションベンダーでしょうか。末端の翻訳者にしてみれば、「Engineered by SpaceX」というフレーズがこの会社のタグラインであることに気がつくとは限りません。目の前にあるバイリンガルファイルでは翻訳対象となっているから、英ママにせよという指示がない限り日本語に訳すしかありません。どうもタグラインらしいと思ったら申し送りを付けることになりますが、発注元のローカリゼーションベンダーの元締めが、面倒がらずにクライアントの担当者に確認してくれることを祈るしかありません。確認してくれないと、後で似たような案件が発注されてきたときに末端の翻訳者が訳し方で悩んでしまいますので。

XでのStarlinkの広告

ここのところ、X(旧Twitter)にアクセスすると頻繁にStarlinkの広告が挿入されます。その文面がちょっと不自然なのですが、目にする頻度があまりにも高いので一言言ってみたくなります。

接続して、その後はどうすればいいのでしょうか。いかにも英語から翻訳した文章なので、英語版も探してみたら見つかりました。

 

Starlinkのサービスを使うとfast, reliable internetにGet connectedしてstreaming, video calls, online gaming and moreを楽しめる、つまり低速だと話にならない用途にもこのサービスなら大丈夫ということですよね。

念のため、日英を並べて書き出しておきます。

ストリーミング、ビデオ通話、オンラインゲームなどを楽しめる、信頼性の高い高速インターネットに接続しましょう。

Get connected with fast, reliable internet for streaming, video calls, online gaming and more.

 

頻繁に現れる広告はもう1つあります。

「ゲームなどに対応する高速で信頼性の高いホームインターネット」の「対応」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。こちらの英語版は、Starlinkからの投稿の中では見つからなかったのですが、スクリーンショットを投稿している人がいたのでテキストを書き出してみます。

 

このfast, reliable home internetをgetすればstreaming working from home, gaming, and moreをmultiple devicesでseamlessに楽しめるということですね。こちらも日英を並べて書き出しておきます。

複数のデバイスでシームレスなストリーミング再生、在宅勤務、ゲームなどに対応する高速で信頼性の高いホームインターネットをご利用ください。

Get fast, reliable home internet for seamless streaming working from home, gaming, and more across multiple devices.

元のテキストが長くても短くても、文法的に正しく訳せばいいというものではないのは文章タイプにかかわらず言えることですが、広告ならなおさら、アピールしたい部分をしっかりアピールしてほしいものです。

追記:投稿本文は同じで画像内のテキストが違うというパターンもありました。