IT翻訳者の疑問

この業界に入って約20年。私の疑問は相変わらず解決しません。

The lifeblood of the global economyとは

「lifeblood」という単語は、企業が扱うものの重要性を示す表現として時々目にしますが、これをうまく訳すにはどうすればいいでしょうか。

昨日取り上げたCiscoのWebページにも出現するのですが、日本語版ではこの部分が省略されているようです。

Integrity and trust | Cisco ESG Reporting Hub

Cisco's networking, security, collaboration, and cloud solutions help secure and protect the lifeblood of the global economy. Given the critical nature of the solutions we provide, holding ourselves to the highest standards of a trustworthy, transparent, fair, and accountable company is vital. Below are resources on Cisco's approach to topics including data privacy and security, ethics, and human rights.

整合性と信頼性 | Cisco ESG レポートハブ

シスコのネットワーキング、セキュリティ、コラボレーション、クラウドソリューションによって、世界経済に不可欠な安全とセキュリティが確保されます。このような重要なソリューションを提供するシスコは、信頼性、透明性、公平性を実現し、説明責任を果たす企業として最高水準を維持しなければなりません。以下のリソースは、データプライバシーとセキュリティ、倫理、人権などのトピックに対するシスコのアプローチを示しています。

英文の「Cisco's networking, security, collaboration, and cloud solutions help secure and protect the lifeblood of the global economy.」が日本語版では「シスコのネットワーキング、セキュリティ、コラボレーション、クラウドソリューションによって、世界経済に不可欠な安全とセキュリティが確保されます。」ですが、これでいいのでしょうか。

定冠詞付きの「the lifeblood of」について、ここでは具体的な説明はありませんが、Ciscoの別のページには次のような記述があります。

blogs.cisco.com

By their very nature, Cisco’s solutions help secure the lifeblood of the global economy. More than 80 percent of the world’s web traffic travels securely across Cisco connections, and our solutions help protect the data of millions of users and 100 percent of the Fortune 100. This requires us to carefully design solutions with security and privacy embedded from the start, and to be extremely vigilant in safeguarding our customers and technologies against intrusions.

つまりCiscoのネットワーク、セキュリティ、コラボレーション、クラウドのソリューションが安全に守っているのはWebトラフィックですね。それを「シスコのネットワーキング、セキュリティ、コラボレーション、クラウドソリューションによって、世界経済に不可欠な安全とセキュリティが確保されます。」と表現してしまうと、ちょっと範囲が広すぎるのではと思います。

そうはいっても、「the lifeblood of the global economy」を説明的に訳すと文字数が増えてしまってこのスペースに収まらないかもしれません。ここはやはり、日本語でも短く、英文と同じような雰囲気の表現にしたいものです。

Webで調べると「生命線」という訳し方もあるようです。「Ciscoのネットワーク、セキュリティ、コラボレーション、クラウドのソリューションは世界経済の生命線を安全に守っています」でも格好はつくのですが、現実には「線」ではないところがひっかかります。

いっそそのまま「血液」でもいいのでは、と思ってWebで調べてみたら「経済の血液」という表現は思っていたよりたくさん見つかりました。書名にも使われているようです。

 

 

 

実際の仕事で「世界経済の血液を安全に守っています」と訳すと、レビュー時にすかさず「逐語訳すぎる」と言われそうですが、こういうのは慣れの問題なので、レトリックに違和感を持たれなければいいんですよね。さしあたっては「世界経済の『血液』を安全に守っています」とかっこで囲んでみるとか。

企業のIntegrityとは

企業理念の記述に出現するtrustの訳し方を調べていたときに見つけたページです。

www.cisco.com

www.cisco.com

Trustの前に、integrityという単語の訳し方がちょっと気になります。Data integrityという文脈では、「データ整合性」という表現が使われることもあるので、そこから来たのかなと推測するのですが、企業理念として「整合性」でよいのでしょうか。

英英辞典でintegrityを調べてみると、「If you have integrity, you are honest and firm in your moral principles.」(コウビルド米語版英英和辞典)という説明があります。このページの「Integrity and trust」という見出しに続く文章の中に「the highest standards of a trustworthy, transparent, fair, and accountable company」というフレーズがあるので、integrityはこの辺りを指すのだと思います。これを日本語で一言で表すには?

なかなか難しいので、とりあえず「企業 integrity」でWeb検索してみて知ったのですが、「インテグリティ」というカタカナ語が既にかなり使われているのですね。

www.ntt.com

倫理方針や行動規範などにおいて、「インテグリティ」(Integrity)の考え方をマネジメントに採り入れる企業が増えています。インテグリティとは誠実や真摯、高潔などを意味する言葉であり、すでに広まっているコンプライアンスとは基本となる考え方に大きな違いがあります。このインテグリティについて、詳しく解説していきます。

ここまで広まっていたら、最初に引用したページのタイトルも「インテグリティと信頼」でよいのかなと思いましたが、カタカナ語と漢語をこうやって並べるとバランスが気になりますね。

その「たりたり」は例示か反復か

「たりたり」の使い方を、改めて日本語学習者向けのWebサイトで調べてみました。

www.coelang.tufs.ac.jp

この東京外国語大学のページには、「~たり、~たりします」について次のような解説があります。

1 動作のいくつかを例として並べるときに「Vたり、Vたりします」を使います。「Vたり、Vたりします」はほかにも該当する動作があることを暗示します。

(1)わたしは夏休みにテニスをしたり泳いだりしました。

では、このAdobeのページにある「たりたり」はどちらに該当するでしょうか。

helpx.adobe.com

新しいコンテンツを非破壊的に追加したり、画像内のオブジェクトのカラーを変更したりすることができます。シンプルなテキストプロンプトを使用して貴重な時間を節約し、リアルな結果を得ることができます。

例えば、花を花瓶に追加したり、木を風景に追加したりできます。

インスピレーション、エキスパートによるヒント、一般的な問題の解決策については、Discord または Adobe Firefly フォーラムにアクセスしてください。 チームや他のユーザーとつながって、アイデアを交換したり、作品を共有したり、最新の機能やアナウンスを確認したり、フィードバックを提供したりできます。

どれも反復ではなさそうだから、例示でしょうか。

英語版を見てみると、最初に引用した部分は次のようになっています。

helpx.adobe.com

Add new content or change the color of objects in your images non-destructively. 

画像に新しいコンテンツを追加することと、オブジェクトの色を変えること以外にも、この機能で非破壊的にできることがあるのかどうかは、ここからは読み取れません。

2番目は「例えば」で始まっているから明らかに例示ですね。3番目の「~たり」の繰り返しはくどくないでしょうか。

For inspiration, expert tips, and solutions to common issues, visit Discord or the Adobe Firefly Community forum. Connect with our team and fellow users to exchange ideas, share your creations, stay updated with the latest features and announcements, and provide feedback.

フォーラムでできることはこの4つ以外にもあるとは思いますが、ここでは「Adobeのチームやユーザー仲間とつながって、アイデアを交換し、作品を共有し、最新の機能やアナウンスを確認し、フィードバックを提供することができます。」ではいけないのでしょうか。

もし、他にも該当するものがあることを暗示する例示の意味で「~たり」を使うとしたら、「たりたり」ではなく単独で使うことも可能なので、単独で使ってみておかしかったら「たり」をやめたほうがよいと思います。

  • 新しいコンテンツを非破壊的に追加したりできます。
  • 例えば、花を花瓶に追加したりできます。
  • チームや他のユーザーとつながって、アイデアを交換したりできます。

「~により」を使いたくない理由

過去に何度も取り上げてきた「~により」ですが、相変わらず目に付きます。

https://www.ibm.com/docs/ja/zos/2.5.0?topic=set-minimum-required-statements

JES2 の使用を開始するには、多重アクセス・スプール複合システム、ノード、リモート・ワークステーションなど、比較的高度な処理環境を何も構成する必要はありません。 システムが成長する元となる基礎を構築するだけで開始できます。 JES2 の初期設定を支援するために、プロダクトと一緒に初期設定データ・セットのサンプルが出荷されています。 SYS1.PARMLIB に入れて出荷されるこのサンプルのデータ・セットにより、インストール・システムで定義される装置や、インストール・システムに固有の値を追加するだけで済みます。 このデータ・セットには、JES2 初期設定データ・セットのすべてと、パラメーターすべてのデフォルトが含まれています。

「~により」を「~によって」で置き換えてみると、「このサンプルのデータセットによって、インストール・システムで定義される装置や、インストール・システムに固有の値を追加するだけで済みます」となるのですが、「によって」はどこに続いているのでしょうか。

英語版では、この部分が「This sample data set requires only the addition of installation-defined devices」と書かれています。

https://www.ibm.com/docs/en/zos/2.5.0?topic=set-minimum-required-statements

To begin using JES2, it is not required to configure any of the more sophisticated processing environments, such as a multi-access spool complex, nodes or remote workstations. You can begin by simply building a base upon which your system can grow. To assist with JES2 initialization, a sample initialization data set is shipped with the product. This sample data set, shipped in SYS1.PARMLIB, requires only the addition of installation-defined devices and installation-specific values. It contains all of the JES2 initialization statements and the defaults for all parameters.

JES2の使用をすぐに開始できるように、サンプルの初期化データセットが製品に付属しているので、使う人は自分のシステムのデバイスと固有の値を追加するだけでよいということですよね。無生物主語が現れたら「~により」を使うという規則があるのかどうかは知りませんが、こういう意味不明な文章になりがちなので、自分では使うのを敬遠しています。

別の例も見てみます。

business.adobe.com

テキスト自動要約は、コンテンツフラグメントのテキストを、意味を変えることなく、事前定義された文字数に自動的に短縮します。マシンラーニング(機械学習)により、情報量が多く一意性の高い文章を残します。

business.adobe.com

The auto-text summarization feature automatically shortens text in content fragments to a predefined target word count while maintaining meaning. Machine learning directs the system to retain the sentences with the highest information density and uniqueness.

マシンラーニング(機械学習)により、情報量が多く一意性の高い文章を残します。」の「残します」は誰の動作なのかがよくわかりませんね。Machine learningという無生物主語に続くdirectsという動詞が訳しにくいのはわかりますが、「機械学習により」では端折りすぎです。意味を考えたら「機械学習の結果に従って~が残されます」といった感じでしょうか。

包括的な言語とは

「~するだけで済みます」の用例を探していて見つかったページの最後の部分に、このような文章がありました。

https://www.ibm.com/docs/ja/zos/2.5.0?topic=set-minimum-required-statements

IBM は包括的な言語の使用を尊重しますが、ユーザーの理解を維持するために、 IBMの直接の影響を受けない用語が必要になる場合があります。 他の業界リーダーが IBM に参加して包括的な言語の使用を受け入れるようになると、 IBM は引き続き資料を更新してこれらの変更を反映します。

これはいったい何の話をしているのでしょうか。英語版も見てみます。

https://www.ibm.com/docs/en/zos/2.5.0?topic=set-minimum-required-statements

While IBM values the use of inclusive language, terms that are outside of IBM's direct influence, for the sake of maintaining user understanding, are sometimes required. As other industry leaders join IBM in embracing the use of inclusive language, IBM will continue to update the documentation to reflect those changes.

「包括的な言語」とは「inclusive language」のことのようですが、この語句をそのままWeb検索すると、丁寧に解説しているページがいくつも見つかります。たとえば、次のようなページです。

people-and-culture-lab.rakuten.net

www.honyakuctr.com

このinclusiveという概念は、「包括的」あるいは「包摂的」という漢語よりもインクルーシブというカタカナ語のほうが通じやすいのではと思います。なぜなら「包括」は「ひっくるめて一つにまとめること。」、「包摂」は「ある範囲の中に包み入れること。」【出典: 大修館書店 明鏡国語辞典 第三版】であり、誰かを排除するexclusiveの対義語としてはちょっと違うような気がするからです。「包括的な言語」について、説明を加える余地があれば別ですが。

最初に引用した文章で言いたいことは、「IBMはインクルーシブな言葉遣いを尊重しているが、IBMの影響力が及ばない用語もユーザーの理解を保つために使わざるを得ないことがある」、つまり他社の非インクルーシブな用語がIBMのドキュメント内で使われることも時にはあるが、それはIBMからはどうにもできないという断りですよね。実際にあるかどうかはわかりませんが、仮にmaster/slaveという表現を未だに使っている他社製品との連携について述べている記事があったとして、その表現を変えてしまったらユーザーが理解できなくなるので、IBMとしては不本意ながらmaster/slaveという表現を自社の記事内に残すこともあるが、他の業界大手がIBMに賛同してその表現を改めてくれたらIBMはそれに合わせて自社の記事を更新するということでしょう。

ここで引用したページはマーケティングのコンテンツではなく、技術文書に分類されるものですが、それでも読者に向けて何を伝えたい文章なのかをよく理解して訳文を組み立てることは必要だと思います。

「済みます」を使わずに済ませるには

この業界の一部では、「~するだけで済みます」という表現が好まれているらしく、たびたび見かけます。

https://helpx.adobe.com/jp/acrobat/using/pdf-properties-metadata.html

Acrobat の PDF 設定で、文書内の Web リンクのベース URL を設定できます。ベース URL を指定しておくと、他の Web サイトへの Web リンクを簡単に処理できます。例えば、リンク先の URL が変わった場合は、ベース URL を編集するだけで済みます。このサイトを参照する個々の Web リンクを編集する必要はありません。完全な URL アドレスがリンクに含まれている場合は、ベース URL は使用されません。

https://helpx.adobe.com/acrobat/using/pdf-properties-metadata.html

In the PDF settings for Acrobat, you can set a base Uniform Resource Locator (URL) for web links in the document. Specifying a base URL makes it easy for you to manage web links to other websites. If the URL to the other site changes, you can simply edit the base URL and not have to edit each individual web link that refers to that site. The base URL is not used if a link contains a complete URL address.

https://support.apple.com/ja-jp/HT208147

iCloud+ のサブスクリプションを共有する場合、ファミリー共有グループのメンバー全員がそれぞれ自分のアカウントを使います。そうしておけば、サービスへのアクセスを共有しながらも、写真、書類、その他の情報のプライバシーはそれぞれ守ることができます。シンプルに、iCloud+ で利用できる機能や容量を家族で分け合うので、プランをたった 1 つ管理するだけで済みます。

https://support.apple.com/en-us/HT208147

When you share an iCloud+ subscription, everyone in the family group uses their own account. That way your photos, documents, and other information stay private, even though you're sharing access to the service. You simply share the features and space available in iCloud+ with your family members, so you only have one plan to manage.

どうやら、英文でonlyやsimplyが使われているときに「~だけでよい」というニュアンスを反映するために「済みます」が使われるようなのですが、なんだか違和感があります。何が済むのかがわからないからです。

国語辞典で「済む」を調べると、

《多く「︙で済む」の形で》物事がその程度の簡便軽微な事柄で収まる。
【出典: 大修館書店 明鏡国語辞典 第三版】

といった語義があり、確かにその意味で使われているので間違いではないのですが。「何をしないで済むか」を伝える文章なら、「済む」が使われていても違和感はないのではと思います。

最初に引用したAdobeの例文なら、「編集が必要なのはベース URL だけであり、このサイトを参照する個々の Web リンクを編集する必要はありません。」などと書き換えることが考えられますが、原文に「必要」の意味はないなどと言われてしまうのでしょうか。

Phraseエディターの猫パネル

https://support.phrase.com/hc/ja/articles/5709683847964-CAT%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BF-TMS-

「猫」はCATから来たんだろうなというのは容易に想像できますが、なぜここだけこうなってしまったのでしょうか。

英語版のページを見たら、CAT PaneとすべきところがCat paneと書かれているのですね。

https://support.phrase.com/hc/en-us/articles/5709683847964-CAT-Editor-TMS-

おそらく機械翻訳の出力をそのまま使っているからだと思いますが、翻訳産業向けのエディターのヘルプなのに、このレベルの日本語でOKと判断されていると思うと情けなくなります。日本語を話す営業担当もいるはずですが、これにもの申すこともできないのでしょうか。翻訳者は日本語ヘルプがなくてもなんとかなるし、そもそもヘルプはよほどのことがなければ見ませんが。